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Posted by さがファンブログ事務局.

軍艦島(長崎市端島)見学

信金役員旅行2日目は長崎市内観光。最初の見学地は“長崎港めぐり遊覧船”軍艦島クルーズが計画されていた。第一便に乗船するためにホテルを8時に出た。長崎港ターミナルから出発する遊覧船は日曜日で見学客も多い。当初は軍艦島周遊上陸コースの予定だったが、今日は波が荒く上陸は出来ないとの事で上陸は断念せざるを得なかった。内海は割合穏やかだったが内海を出ると波が荒く接岸できないことが理解できた。


             軍艦島遠景

この軍艦島とは通称で正式な島名は端島(はしま)という。この島は1810年頃石炭が発見され佐賀藩によって採炭が開始されたとの事。佐賀県民のひとりとして少し誇らしく思った。明治になると石炭はエネルギー源として注目を集め始める。1890年(明治23年)に三菱財閥が島と採掘権を買い取り本格的な採炭が行われた。良質な石炭は八幡製鉄所の製鉄用の原料炭として利用され、国の手厚い保護の下に時代の花形産業として栄えた島である。


          船上から見る軍艦島

最盛期には南北480m、東西160mという狭い島に5300人もの人々が暮らし、小学校、中学校もあり、日本初の鉄筋コンクリート造り高層アパート群が建設され、人口密度も東京の9倍を越えたとの説明があった。しかしこの島もエネルギー革命により1974年(昭和49年)炭鉱は閉山しその役目を終えた。今この軍艦島を含む数箇所を近代産業遺産を世界遺産にしようとの動きがあるそうだ。


     長崎港ターミナルに展示の軍艦島模型

我が伊万里市も10箇所以上の炭鉱があり最盛期には市内の人口も83000人を越えていた。中学校時代には8クラスあり同級生も400人を越えていたが閉山と共に全国に分散し、今では住所が判明しているものは半数の200名程度である。奇しくも旅行の翌日に、炭鉱閉山で市内を離れた同級生が来ると言うことで「ミニ同窓会」を開き10人あまりが集まり、昔話にひと時を過ごした。白髪混じりの初老の集まりと共に時代の流れを感じた二日間であった。  


Posted by 古賀 等. 2009年11月20日20:15 | Comment(2) | 日記

第3回5S研究会(工場見学会)

社内で5Sに取組み出してから1年10ヶ月が経過した。今日は県の「産業支援センター」の指導の下に5Sを実践中の県内の企業が集まり第3回目研究会が弊社で実施された。工場内を見ていただき5Sの進捗状況を厳しくチェックして頂いた。


        床面の塗装と安全通路        厳しいチェック作業

まず、前回弊社で実施された研究会(弊社の見学会)での“指摘事項”に対してどのようにカイゼンに取り組んだかを発表する。前回から取り組んだ大きなカイゼン点は工場内の床を全面塗装したことである。床面を塗装したのは弊社ではFRP製品のカット・サンディング時に発生する粉塵で“汚れを目立たせる”目的があった。それと床面をきれいにする事で“汚さない”ようにする目的があった。


      赤札(安全通路に電気コード)      赤札(棚の一番上には物は置かない)

しかし他の部分ではまだ赤札の数は一向に減らない。研究会のメンバーが現場を見る目も回を重ねる度にレベルを上げて見るので前回見逃されていた部分も今回は更に厳しくチェックされた。毎回思うことは他社からの目線で見ていただくことは非常に有り難く、多くの学びがある。今回も多くのカイゼンすべき箇所の指摘を頂いた。


     評価についてのグループ協議       判定を待つ5Sメンバー

赤札貼付終了後、各チームで赤札の貼付理由をまとめる。赤札貼付理由と改善策についての説明があり研修会(見学会)を終了した。見学会が終わり一息ついたものの、今回指摘していただいたカイゼン箇所を次回の弊社見学会までに是正しなければならないという義務が発生する。年末は仕事も忙しくなるが今日の5Sでの指摘事項は全社一丸となって取り組まなければならない。この5Sの目的である会社の業績向上のために。  


Posted by 古賀 等. 2009年11月16日20:15 | Comment(0) | 仕事

伊万里市制55周年記念式典

戦後10年も経たない昭和29年に2町7カ村が合併して伊万里市が誕生した。55年の歴史を経て11月3日文化の日に「市制施行55周年記念式典」が開催された。


        大川内保育園児による「せいら太鼓」

式典は、市内にある大川内保育園の園児による「せいら太鼓」で幕が開けられた。伊万里市の合併当時は炭鉱が盛んな時期で、人口も8万3千人と賑わいを見せていた。少子化が進み伊万里市内の人口は現在では6万人を切っている。


            市長さんの式辞

55年という歴史は幾多の変遷を経て現在がある。市の財政を支えてきた市内の企業も、隆盛を誇った石炭産業もエネルギー革命により衰退し閉山に追い込まれた。その後名古屋から合板企業が進出してきたが賃金の安い東南アジアへとその生産拠点は移り、衰退していった。


            功労者表彰

その頃進出してきた造船企業はこの不況下で唯一元気企業である。IT関連企業は、規模拡大をはかるべく大型設備投資をしたが直後に襲った“世界大不況”の影響で操業を縮小せざるを得ない状況である。合併当時の賑わいを取り戻すことは無理だとしても今ある企業、農業、商店街が元気を取り戻すきっかけになればと願わずにはおれない記念式典だった。


           伊万里賛歌の大合唱

市長さんの式辞の後、市政発展に貢献された個人、各種団体の方々や市民の模範となるような善行者に対しての表彰式があり、最後の締めは市内の多数の合唱団による「伊万里賛歌」の大合唱で幕を閉じた。  


Posted by 古賀 等. 2009年11月05日20:15 | Comment(2) | 日記